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出版企画書籍販売古美術・骨董ガラスアート篆刻 ◆書道雑記帖◆



文・写真 橋本吉文

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No.7 燕半瓦當
.jpg  瓦の起源について、樋口隆康氏(『始皇帝を掘る』学生社)は、「そもそも、中国で、瓦が使われだしたのは、西周時代である。陝西省岐山県鳳雛村周原の西周中晩期の建物から出土した少量の板瓦が古い例であり、建物の屋根の棟を覆うように並べたらしい」という。板瓦から平瓦、平瓦から丸瓦への変化について関野貞(「瓦」『考古学講座』第一号)は、「平瓦を仰向けに並べ、更に同じ平瓦を其上に俯向けに伏せたのが、後に此俯向け瓦が丸瓦に発達したのであろう」と説き、丸瓦の端から雨水が入らぬように塞いだことにより半円形の部分ができたという。これが半瓦当である。
 燕は戦国七雄の一で、下都(昌県)から半瓦当が出土している。瓦当の質は比較的粗く、中に砂礫や雲母が混じっているものがある。模様としては饕餐文、双龍文、双獣文、凸字様文などがある。力強い造形で、当時、建物にこの瓦が並んでいた状況を想像するに、人を近づけさせないような空気を醸し出していたと考えられる。

 

No.6 牧牛澄泥硯

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澄泥硯の実体については諸説あり、明確になっていない部分がある。故宮博物院には「牧牛澄泥硯」があり、『中華古硯』(江蘇古籍出版社)に紹介されている。四肢は折り曲げて伏しており、背中の部分が墨堂となる。全体は黒く、墨堂は中央に凹み、紅色に褐色の斑点がある。
同型の硯は首都博物館にも収蔵展示されており見ることができる。この他、日本でも見ることがあり、明時代に流行った硯式であったことがわかる。図版に示したものも同型のものである。同じように全体が黒く、墨堂は赤みを帯び、褐色の点がある。牛の伏す形状も同じである。澄泥硯の位置づけが明確でなく、陶硯とすべきかも知れないが、いまは澄泥硯として位置づけておく。
因みに、首都博物館は2006年2月に新装オープンした。地下鉄木犀地を東に歩いて5分ほどのところにある。その広さ、内容とも素晴らしいもので全てを見るのに1日でも回りきれないものである。北京の新しい観光スポットとして注目されるであろう。

 

No.5 田 黄
.jpg  田黄は福健省福州市の北40キロの寿山郷より産出した。明以前は「黄石」と称されており、明末から印材として注目された。顧恵敏(『印章鑑賞与収蔵』上海書店出版社)は、清初には寿山田黄、坑頭水晶凍、月洋芙蓉を、鑑賞家が重視し、乾隆帝が皇帝印に田黄を用いてから印石の王座となるという。光緒年間には田黄、鶏血、芙蓉石は印石三宝として尊ばれた(方宗珪『寿山石全書』八龍書屋)。1930年代、寿山、青田のみならず、多くの地域において採石され、石印材に関する著録も刊行されるようになる。田黄のみが注目されている中で、河西弘(『印石箚記』)は、田黄、鶏血、芙蓉以外にも見るものがあると指摘し、村木鬼空(『桃紅艾緑』)は、田黄の価格の高いことのみに注目しており、田黄の駄石よりも素晴らしいものがあると述べる。これらの指摘は自らが印を彫る石印材において、評価の高い田黄を求める人が多く、高価なものになっていったことを示すものである。
現在、田黄は掘り尽くされ、一両の田黄は一両の金といわれていたものが、1980年代、三両の金、1990年代では十両の金と指摘されるものである(顧恵敏『印章鑑賞与収蔵』)。ゆえに、田黄を印材に加工することに注意が払われ、鈕を彫るものは少なく、方形、天然形が多い。

 

No.4 石鼓文
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 唐時代の初期、陝西省鳳翔府天興県南方20里、陳倉で発見され、鼓に似ていることから名付けられた。10鼓あり、「陳倉十碣」と称したり、四言詩で狩猟を歌っていることから「猟碣」ともいわれる。刻年は戦国秦の中期との指摘が多い。
 石鼓は花崗岩製で、破損が激しく、北宋の欧陽修(『集古録跋尾』)は判読できる文字は465字という。現代では更に大きく減り、新拓本をもとにかぞえると250字ほどである。
 明時代の安国(1481―1534)は無錫の富豪で、古文物の収蔵家として有名であった。石鼓文に対して強い関心をもち、旧拓本十種を得て十鼓斎と号している。その中に北宋拓の「先鋒本」「中権本」「後勁本」があった。この三本は三井高堅氏が入手し、三井聴氷閣(ていひょうかく)蔵本として三井文庫に収められている。ちなみに、「先鋒本」は「大正10年に四万二千円で入手しているが、当時千円で総檜造りの豪邸が建てられたという話であるから、まさに想像を絶する破格である」(樋口一貴「三井高堅と聴氷閣拓本コレクションの形成」『聴氷閣旧蔵碑拓名帖撰』三井文庫)と指摘されている。
 石鼓文は北京の故宮博物院に収蔵されており、ケースに収めて展示されている。

 

No.3 甲骨文字
.jpg  甲は亀甲、おもに腹甲を用い、骨は獣骨を指し、おもに牛骨が用いられている。これらに文字を刻してあるものを「甲骨文」という。
甲骨文字発見のエピソードとして、光緒25年(1899)、王懿栄がマラリアの薬とされていた「龍骨」に文字が刻されていることに気づき、漢方薬店から「龍骨」を買い集め、劉鶚と検討したことによるといわれているが、事実は異なる。阿辻哲次氏(『図説漢字の歴史』大修館書店)は、山東省出身の骨董商である范維卿などが、河南で甲骨を入手し、王懿栄等の青銅器収集家のところへ持ち込んだのが真相のようであったという。
 甲骨文字が世に知られるようになったのは、光緒29年(1903)、劉鶚が甲骨文字の拓本を取り『鉄雲蔵亀』として刊行したことによる。この後、古代文物収蔵家に注目され、甲骨文字の学問的価値が高まった。
 殷墟以前の甲骨文字が、1950年、河南省鄭州市から発見され、1977年には、陝西省周原遺跡から周代の甲骨文字が発見されている。今後とも中国の大地から多くの文物が出土し、甲骨文字の実体が明らかになっていくであろう。

 

No.2 唐時代のカク州石硯」 ※カクはノツ+寸+虎
 唐時代、墨は現代と同じように固形で、硯面に水を入れて磨墨していた。当時の硯は、陶磁器やさまざまな石が用いられていた。各地で硯に適する石が探されていたであろう。端石、歙石がよく知られているが、その他に紅糸石や採石地不明の石硯が紹介されている。
 図版に紹介するものは、唐時代の端石硯と思い入手したものである。作硯は『中華古硯』に紹介されている端石硯に形状は似る。頭部は弧を描き、硯側は少し絞られ後ろに広がる。硯面は中央に凹みながら上部左右に折れ目をつける。裏は側面との角は鋭く、平坦な部分をもつ。後方には台形状の足が1対付き、全体に薄造りで、当時の陶硯に似る。
 最近、中国では硯を紹介する図録が多く出版されるようになった。その中の1つに、黄海涛・柴俊星編著『開悟堂聊硯』(大象出版社、2006年3月)がある。同書にカク州石硯数点採録され、1点は本図版と同じ硯式、硯相をしている。同書の解説には、端硯と混同しやすいことを指摘しているが、図版の硯を子細にみると、紫色と白色が層をなすところがあり、端石硯とは異なることがわかる。同書により、唐時代のカク州石硯であることが判明したが、珍しいものである。


No.1 「擦拓について」
拓本をとる方法に「擦拓」がある。拓本をとる対象物に、水で湿らした紙を密着させると、刻された文字の部分が食い込む。この状態で、毛氈を木の棒に巻き、墨を染みこませて表面を擦ると、食い込んでいる文字の部分には墨が乗らず、白い文字が浮かび上がる。図版に示したものは擦拓による集字聖教序である。
  1900年頃、敦煌莫高窟から太宗皇帝「温泉銘」の拓本が出土した。末尾に「永徽四年八月」(西暦653年)と記されており、唐時代初期以前に拓されたことが知られる。この拓本は「擦拓」によるものであった。また、同時に出土した欧陽詢の「化度寺碑」、柳公権の「金剛経」の拓本も「擦拓」によるものであった。
  「擦拓」は拓法として唐時代には確立し、宋時代以降も多く用いられている。採拓時間は短く、多くの拓を取ることのできる技法は、印刷技術の一として位置づけられ、多くの人に求められたであろう。参考に集字聖教序の擦拓を紹介する。
なお、「擦拓」は対象物の表面が平坦で滑らかでなければ拓すことができない。摩崖に刻されたものなどは「撲拓」によらねばならない。


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