王一亭-1

更新日:2019年04月01日
左上:西★(さんずい+令)印社 右上:王一亭(右)と王个★(竹冠+移)(1936年) 左下:王一亭(右)から夫人、一人おいて黄賓虹(1930年) 右下:王一亭(右)から水野疏梅、呉昌碩
 清末民初に活躍した実業家・書画家・銀行家・政治家の王一亭[1867年12月4日(清同治6年11月13日)〜1938年(民国27年)11月13日]は、名は震、字を一亭で知られています。仏教徒としての活動し、法名は覚器。号は梅花館主、海雲楼主、白龍山人と名乗りました。任伯年に画を学び、呉昌碩と師友となって親交を深め、画家としても優れた業績を残しました。特に力を注いだ花卉画の技法は年とともに進み、「天衣無縫、雄健渾厚」と称されました。作風から呉昌碩の影響を強く継承し、人物、花鳥、山水を得意としましたが、晩年作でよく見られる仏画から、いかに仏教に篤く信仰したかが窺えます。
 呉昌碩との交友では、いろいろな書籍で紹介されていますので今号では割愛いたしますが、1912年に呉昌碩が70歳を迎えて蘇州から上海に居を移したのを機に、呉昌碩の経済的支援を惜しみなく行いました。白石六三郎が上海で開店した和食料理店「六三園」で、王一亭が商業界、金融界、政界などの要人との交流を働き掛け、呉昌碩の名を知らしめたことで呉昌碩の作品制作と潤筆量は跳ね上がりました。海上画派との対立はより一層深まりましたが、1914年、六三園において「第一回呉昌碩展」が開催するまでになりました。
 王一亭は上海を中心に活躍する一方、1867年に初来日し、日本企業と提携するなど親日事業家である一方、中国同盟会に参加した革命派であったため、イギリス租界や香港に逃れるなど激動の人生を歩みました。我が国との関わりで特筆すべきは、1923年の関東大震災時、上海において僅か3日間で「中国協済日災賑会」を立ち上げ、海外からの救援物資第一号として、185,000元もの義援金を使って白米五九50包、麦粉20,000包を始め生活必需品を買い求め、それらを神戸港まで届けました。
 その後、中国仏教徒に十万人にも及ぶ震災犠牲者の慰霊弔祭を働きかけ、大法要を行うとともに二人の法師を日本に派遣、東京、京浜地区を慰問させました。
 次号では、王一亭は震災犠牲者の鎮魂を目的に、梵鐘「幽冥鐘」を作らせて日本に送ろうと試みます。震災によって経済的困窮を極めた当時の日本は、この受家取りに苦戦しましたが、そのあたりについてお話ししたいと思います。
←前へ 目次 次へ→