呉昌碩和東海蘭王(呉昌碩と東海蘭王)-1

更新日:2020年02月01日
弊社刊「呉昌碩手札詩巻合刊」(左上)と「缶廬刻芸楣印集」(左下)
 弊社刊「呉昌碩手札詩巻合刊」に、呉昌碩が「東海蘭王」と呼ばれた朝鮮人・蘭匂の逝去に際してその妻から依頼されて書いた弔文の詩稿を掲載しています。その前半部に、呉昌碩が自ら蘭匂に三百多方印章(300以上の刻印)を贈ったと書いています。呉昌碩に対して蘭匂はかなりの経済的支援を行った人物と言えます。
 余談ですが詩稿は作品「行草提海隅三丐圖詩翰軸 紙本墨筆」として浙江省博物館に残っています。東海蘭匂、別称・東海蘭丐は朝鮮王朝最後の政治家で流亡貴族の閔泳翊のことです。ちなみに丐は「べん」と読み、乞食の意味があり、他に画丐、印丐なども使っています。
  閔泳翊[1860(哲宗11)〜1914]
 本貫は驪興。字は遇鴻・子相、号は芸楣・竹楣・園丁・千尋竹齋。閔台鎬の子で閔升鎬の養子となり閔氏戚族の巨頭となった。
 呉昌碩の有名な刻印の多くは閔泳翊の用印であることが判明しており、二玄社刊「中国篆刻叢刊」にもその一部が掲載されています。
 1884年に起こった「甲申政変」で閔泳翊の父・閔台鎬は殺され、郵政局落成式祝賀宴に参加していた自身も重傷を受けましたが、米国人宣教師アレン(Allen,H.N.)の応急手術を受けてかろうじて命拾いをしたようです。この時、閔泳は呉昌碩に「甲申十月園丁再生」を刻してもらい、この大きな災難不死を心に刻みました。
 さらに1895年10月の「乙未事変」で、閔妃(明成皇后)は日本人に殺害され、閔泳翊はこれより先、政治的脅威を感じ、翌年、内帑金を持って香港や上海などの地を転々として帰国します。1905年乙巳条約締結で親日政権が樹立されると再び上海に亡命して千尋竹齋に住みながら、書画などの売畫生活を過ごしました。しかし、1914年7月7日、閔泳は長年の飲酒の影響から肝臓病を悪化し上海で死去しました。享年54歳。
 次号では閔泳翊と呉昌碩の深い交流について、さらに掘り下げてお話ししたいと思います。
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