雲峰山と天柱山-1

更新日:2022年04月01日
天柱山と鄭羲上碑、東堪石室銘
 今から21年前の2001年5月、ある書道団体を鄭道昭の書を勉強するべく山東省青島市平度市の天柱山と山東省莱州市の雲峯山をご案内しました。事務所移転の際、そのときの思い出の写真が出て来ましたので、今月号の原稿にしたいと思います。
 鄭道昭(386〜534)、南北朝・北魏時代の官吏・書家。字は僖伯、号は中岳先生、山東省にある天柱山・雲峯山・太基山・百峯山に登頂しては多くの詩や題字を岩壁に刻させました。
 とくに雲峯山のふもとで観た「鄭羲下碑」は鄭道昭の代表作と呼ばれる碑で、「鄭文公下碑」とも呼ばれています。「鄭文公碑」にはほぼ同文の上碑と下碑の2種類がありますが、一般的に「鄭文公碑」といえば下碑を指します。書家が臨書するのも下碑であるのは書蹟として見るべきレベルの違いがあるからです。その理由として挙げられるのが、上碑の石質は下碑より悪く、清朝以降登山道が極めて危険な状態となり、近年まで碑に到達することすら困難な状態であったため激しい摩滅により字が殆ど読めなくなるなど保存状態が劣悪だからです。
 下碑は良質な石質に加えて碑亭室内で保護されているため碑面は全文が読めるほど保存状態もよく、実際に筆者は石室に入って手に触れる機会も得て大感激しました。北魏・永平4年(511年)の碑で、その内容は中書令であった父・鄭羲の徳を称えており、後の清朝の包世臣や呉煕載らに称されました。本文は縦195センチ、横230センチに一行約29字×51行、鄭羲上碑より大きな字画で、想像していたより碑面は鮮明に残っていました。
 ここから上方への階段を進むと「論経書詩」が現れます。この碑は「鄭羲下碑」と同じ北魏・永平4年の碑ですが、精妙な「鄭羲下碑」とは好対照で、字画が約15センチ、壮大で骨力に富み、直線的な筆致を以て豪放磊落に書かれています。内容は、雲峯山を神仙の棲む深山幽谷になぞらえて詠んでいるのですが、解読不能な文字が多く不明瞭とされています。
 次号では鄭道昭が父・鄭羲との関係から山東省東部の領内巡視した理由、そして「鄭羲下碑」が再び脚光を浴びた経緯などをお話ししたいと思います。
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