杞憂-2

更新日:2022年12月15日
江戸延享4年刊『張注列子』張湛処度註 列禦寇(京都大学附属図書館蔵)
 そこで心配しすぎる男の話を聞いた長蘆子(河南鄭州人)という賢人が現れ、
  若躇歩★(足+此)蹈、終日在地上行止
  奈何憂其壞躇歩★(足+此)蹈するが若
  きは、終日地上に在りて行止す。奈何
  ぞ其の壊るるを憂えんと。
 長蘆子は「天地が崩れても心を乱さない無心の境地が必」と説きます。同様に『荘子』にも見られますが、天が崩落せず、地が陥没しない理由について、恵施と黄繚という人物が問答を交わしたとあり、人々の議論の対象であったと伺えます。
 さて、杞憂は無用な心配であり、通常の心配ではありません。ですから悪いことが発生するのではないかと推測する、心配・懸念・恐れという意味で使うのは間違いです。杞憂という言葉には2つの使い方があり、心配した結果にならなくて良かった「結果良し」という考え方と、心配だけど大丈夫という「結果への願望」という考え方です。いずれにしても悲観的なのも楽観的過ぎるのもよくないとは思われます。
 杞憂は現代ビジネスシーンでも使われます。顧客や取引先、上司など目上の人に提案したり、意見するときの定型句として「杞憂かもしれませんが」があり、意味は「余計なお世話で申し訳ありません」という使い方で、類語には「老婆心ながら」があります。
 アメリカの統計データによると、心配事の96パーセントは杞憂「取り越し苦労」だそうなので、現状を客観的に見てより楽観的に発想する思考訓練も必要なのではと楽観主義者の筆者は思いますが、地震、津波、噴火、洪水、山崩れなど、そしてコロナ禍など、古代も現代も心配事が絶えない状況かもしれませんが、どうか杞憂で終わってもらいたいと思うばかりです。
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