●紫禁城文淵閣と収蔵される『四庫全書』
1795年、治世60年を迎えた乾隆帝は祖父・康熙帝の治世61年を超えてはならないとの名目で嘉慶帝に譲位し太上皇帝となりましたが、実権は手放さず清寧宮で院政を敷きました。乾隆太上皇帝崩御後、嘉慶帝によってただちに清東陵内の裕陵に葬られましたが、没収された私財は国家歳入の十数年分にも達したと言われています。
さて『四庫全書』は全部で7部つくらせ、正本四部を首都北京紫禁城内の文淵閣(円明園)、奉天宮の文溯閣、円明園の文源閣(第二次アヘン戦争で英仏連合軍により焼失)、熱河避暑山荘の文津閣に置き、残る三部は揚州・文★閣(長髪賊の乱で焼失)、鎮江・文淙閣(長髪賊の乱で焼失)、杭州・文瀾閣に置き学者の閲覧を許しました。これらを納めた建物全てに水に因んだ命名がなされているのは、火災を恐れたためと言われています。ちなみに、愛知淑徳大学図書館所蔵の四庫全書は『景印文淵閣四庫全書』で、台湾故宮博物館所蔵の四庫全書の景印版(写真複製を行った版のこと、「影印」と同義)です。また、中国王朝による国家事業としての事典編纂については、底本(原本資料)を勅撰本、内府蔵本、各省採進本、進呈本、通行本などから広く集め、そのなかから善本を選び、原本亡失しているものは『永楽大典(明時代に編纂された類書)』から引用するという、細微で進歩的な試みのもと編纂されたのです。
しかし『四庫全書』は当然のことながら乾隆以前の書物のみの収載であり、また選に漏れた書物も多いこともあり、19世紀末より続編作成の提案がなされましたが永年、実現出来ませんでした。東方文化事業では『四庫全書』ではなく『四庫全書総目提要』の続編として『続修四庫全書提要』の編纂を行い、32,961本もの提要が書かれましたが、太平洋戦争勃発で事業は中断されました。その後、中華人民共和国となった1994年に『続修四庫全書』事業が再開され、2002年に上海古籍出版社から出版された『続修四庫全書』は『四庫全書』の1.5倍にあたる全5,212種からなる大著で、『四庫全書』所収と合わせると、実8,500余種となり、三代より清末にいたる重要典籍はほぼ完璧に収録されました。