高貞碑の碑陰-2

更新日:2025年11月15日
(図3)高貞碑の碑陰拓

●(図3)高貞碑の碑陰拓

 筆者は2001年5月に、ある書道団体を山東石刻藝術博物館(図1)にご案内したのですが、写真のブリキ小屋に閉じ込められた「高貞碑(図2)」(背中合わせに「高慶碑」)を特別に見せてもらいました。この時は碑陰(碑の裏側)を見ることは叶いませんでしたし、そもそも高貞碑の碑陰拓を見たことがありませんでした。永年、気に掛けることも無かったのですが、先般、知り合いの先生が高貞碑の碑陰拓立軸(図3)を所蔵していると聞かされ、見せてもらう機会を得ました。(図2)で確認出来るように、時期は不明ですが高貞碑は縦に二分裂され、それをセメントで繋ぎ合わせています。拓自体はそんなに古いものではありませんが、少なくとも分裂前の拓本であることは確認出来ます。内容は孫星衍の撰文によるもので、泰山刻石29字をボ刻しています。中国法書ガイド「高貞碑」では、萩信雄氏による「高貞碑陰の孫星衍題記と泰山刻石ボ刻」に詳述されていますが、これは観峯館所蔵の整本を元にしているので、碑陰のどの部分にどのように刻されているのか、やはり全套本でないと明確には分かりませんから、初めて珍品とも言える原拓全套本を見たので今号で紹介する次第です。

 我が国で高貞碑の碑陰を紹介したのは西川寧『書苑』五―11で図版のみにとどまりますが、後年、王壮弘『増補校碑随筆』に、

  嘉慶庚午(1810)、孫星衍が所蔵する泰山刻石29字本を厳可均に依頼して高貞碑の碑陰左にボ刻し、その末に孫氏の題記を刻す。

とあります。この題記は高貞碑の出土時期を知る一級資料として評価され、これにより高貞碑の出土は嘉慶11年(1806)と確定しています。泰山刻石29字本の翻刻は容庚『秦始皇刻石考』によると数多くありますが、孫星衍が所蔵した原本は現在、北京故宮博物院収蔵となっています。

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