「毛公鼎」陳介棋偽造説-1

更新日:2016年04月01日
毛公鼎とその拓本
 西周時代晩期の青銅器「毛公鼎」は、清朝道光23年(1843年)前後に陝西省岐山県から出土しました。西周後期(BC827)頃の作と考えられるこの鼎は、高さ53.8センチ、深さ27.2センチ、口径47センチ、重量34.7グラム、大きな口径、両淵に立つ二つの耳、どっしりとした三本足、口縁に沿った装飾文様と、鼎内に鋳刻された7段32行、497文字の銘文があります。
 現存する商、周両時代7,000点あまりの銘文のある銅器では最長の銘文となります。その内容は、
  「周宣王が即位した際、政治を充実させよ
   うと叔父の毛公を招いて国家内外の政務
   にあたらせ王室保護をさせたところ、自
   らの利益にこだわることなく勤勉に務め
   たので、その賜り物として厚く褒賞した。
   毛公はその命書全文をこの鼎を鋳造し、
   子々孫々に伝えるために宝物にした。」
とあります。
 毛公鼎は開墾中の百姓が掘り出したと推察されますが、哀れにも屑鉄屋に売り飛ばされ、鋼塊にならんとするところを骨董商の目に留まり、威豊2年(1852年)、北京で著名な研究者で収蔵家であった陳介棋の手になりました。
 しかし、毛公鼎はその真贋をめぐってとかく噂が絶えなかった器として有名でした。前代に例のない多字数銘文が世の愛好家たちの格別扱いを受けたこと、また無銘の器に後に字を刻り込んで値を吊り上げる骨董商が現れたこと、そして何よりも陳介棋に対して商いの仲介を行ったのが蘇億年、通称蘇六という偽物作りで名の通った人物であったことから、毛公鼎贋物説が噴かれるようになったのです。
 次号では、陳介疎が鬼籍に入って後、毛公鼎は行方をくらまし、数奇な道筋を経てついに安住の地を得ます。その当たりの背景についてお話したいと思います。
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