岳飛と秦檜-1

更新日:2017年11月01日
1961年に全国重点文物(文化財)に指定された杭州市の岳王廟正面
 唐代は軍人が政治を掌握した時代でしたが、その結果、国が滅び、五代十国の乱世が長く続いた経緯を受け、趙匡胤が建国した北宋(960〜1127年)は、徹底した「文治政治」を執り行いました。政治家は科挙合格者である文官が司り、武官はその配下として掌握されました。建国当初から北方の脅威であった遼には、毎年、絹20万疋と銀10万両を朝貢して「平和を買い」ました。軍事力よりも経済力で国家の安定を図ったのです。そのため中国陶磁器で白磁や青磁といった最高水準を誇る名品「宋磁」が多く製作され、独特の作風を誇る書画の名品も多く生まれました。また、印刷も庶民が得ることが出来、演劇や講談など庶民文化も開花しました。世界初の紙幣「交子(こうし)」が発行されたのも宋代からです。
  しかしながら、宋の軍隊は、歴代中国王朝の中でも類がないほど弱体化してしまいました。北方の異民族国家「金」に脅かされても、文官は私腹を肥やして保身に走り、将軍たちも屈強な敵を恐れて戦おうとしませんでした。そんな国の存亡を救ったのが私兵を率いて登場した岳飛[崇寧2年2月15日(1103年月24日〜紹興11年12月29日(1142年1月27日)]です。中国歴代最高の軍師と民間から絶大な人気を持つ岳飛(字は鵬挙)は、1103年に河南省湯陰県に生まれた実在武将です。
 湯陰村の農家に生まれた岳飛は、幼少時に父を亡くし、母と二人で貧しい暮らしを余儀なくされます。亡き父に厳しい教育を受けていた岳飛は、若くして様々な書を読み、槍、弓矢、件、挙法、いずれの腕前も一級品の武芸を身につけるなど、左右両方に弓を射ることができる文武両道の青年に育ちました。若い頃、母の手で背中に「尽忠報国(じんちゅうほうこく)」という四文字の入れ墨を刻まれたエピソードがあります。尽忠報国とは「忠義を尽くし、国の恩に報いる」という意味で、父の教えを忘れないよう身体に刻みつけたのです。
 次号ではのちに「救国の英雄」と呼ばれた岳飛の悲劇の最後と、「軽蔑すべき売国奴」と呼ばれる秦檜についてお話ししたいと思います。
←前へ 目次 次へ→