六四天安門事件-1

更新日:2018年06月01日
天安門広場に集まった人民と天安門事件の状況を伝える新聞
 1989年4月15日、政治改革に積極的だった中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦(1915年11月20日〜1989年4月15日)が逝去しました。
 胡耀邦は言論の自由化を推進するべく「百花斉放・百家争鳴」を再提唱し、国民からは「開明の指導者」として大きな支持を集めました。しかし、それをよく思わないケ小平ら党内の長老グループや保守派主導の「精神文明決議」が採択されたことで辞任を強要され、失脚してからは北京市内の自宅で警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送りました。
 胡耀邦は人民服ではなくて真っ先に背広を着込み、箸ではなくフォークとナイフを使うなど、合理的なことを積極的に取り入れる開明的な指導者でしたが、それが長老左派の批判の的となり、失脚につながったとも言われています。
 胡耀邦の葬儀までの間、政治改革を求める胡耀邦の信奉者ともいうべき学生や一般市民を中心とした自然発生した10万人もの人々が天安門広場に集まりました。その集結は胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモとして激化し、広場周辺にまで広がり、さらに上海市を含めた地方都市にまで波及しました。
 危機感を覚えたケ小平の決定により、5月19日に北京市に戒厳令が布告され、武力介入の可能性が出始めたため、趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちにデモの平和的解散を促しましたが、多数派の強硬派学生がデモ継続を強行したため、ついに6月4日未明、中国人民解放軍の戦車が無差別に実弾を発射、装甲車で轢き殺すなどの武力弾圧を行ないました。
 次号ではもう少し天安門事件とその後の中国の状況について突っ込んで書いてみたいと思います。
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