楊★の詩箋-2

更新日:2020年01月15日
朝倉文夫宛書簡と長尾雨山宛書簡

 その楊★を師と仰ぎ、53歳のときから詩文や書法を学んだ呉昌碩も楊★の詩箋をよく使っています。西☆印社に呉昌碩の胸像を制作し、それを機に呉昌碩との交流を深めた彫刻家・朝倉文夫[1883年(明治16年)3月16日〜1964年(昭和39年)4月18日]は、胸像製作のために呉昌碩に前後左右4枚の写真とともに「竹石図」と「篆書神在箇中」の作品二点の寄贈と書簡をもらっています。写真は台東区立朝倉彫塑館蔵の呉昌碩78歳時の朝倉文夫宛書簡[中華民国・中華民国10年(1921)]ですが、この詩箋は楊★の手によるものです。余談ですが、残念ながらこの胸像は1966年に始まった文化大革命で、惜しくも亡佚してしまいました。
 また、民国元年(1912)、上海に転居した呉昌碩は長尾雨山(1864〜1942)の近隣に居を構え、雨山が日本に帰国する大正3年(1914)12月まで、12年間に亘って詩文、藝論を交わすなど深い交流をしました。写真は京都国立博物館蔵の呉昌碩八二歳時の長尾雨山宛書簡[中華民国・民国14年(1925)]です。その年の5月、上海南京路の先施公司門で82歳の呉昌碩を乗せた人力車が電車に接触、横転した呉昌碩は地面に投げ出され、顔中血だらけになりました。幸い、軽傷だったその事故を「一趺」と題し三首の七言絶句にまとめた詩箋も楊★の手によるものです。
 詩箋のお洒落なことはもちろんですが、文人の手によると、何気ない書簡であっても作品かと思わせるような筆致、そして構成、思わず見とれてしまいます。

★…山+見
☆…さんずい+令

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