閔泳翊と呉昌碩の金石交流-1

更新日:2020年09月01日
弊社刊「呉昌碩手札詩巻合刊」(左)と詩稿部分

 弊社刊「呉昌碩手札詩巻合刊(2016年4月初版)」に、呉昌碩が「東海蘭王」と呼ばれた朝鮮人・蘭匂の逝去に際してその妻から依頼されて書いた弔文の詩稿を掲載しています。その前半部に、呉昌碩が自ら蘭匂に「為製三百餘石(300以上の刻印)を贈った」と書いています。呉昌碩に対して蘭匂はかなりの経済的支援を行った人物であることは明白ですが、興味を持った筆者は韓国の篆刻家や友人を通じて取材をし、凡その全貌が理解出来たので「書法漢學研究二五号」の誌面で発表しました。
 閔泳翊[1860(哲宗11)〜1914]本貫は驪興。字は遇鴻、子相、号は芸★、竹★、園丁、千尋竹齋。朝鮮王朝末期の政治家、開化思想家、書画家。閔台鎬(図四)[1834(純祖34)〜1884(高宗21)]の子で閔升鎬[1830(純祖30)〜1874(高宗11)]の養子となり、勢力を誇った閔妃[1851(純祖2)〜1895(高宗32)]の甥にあたる。閔氏戚族の巨頭となった。
 閔氏政権で活躍したが為に壬午軍乱で攻撃対象となった。欧米や日本を視察し、後世に中国に亡命するなど波乱の人生を過ごした。亡命後は呉昌碩、蒲華、任伯年らに代表される海上派の文人と交流した。書は顔法を宗とし、画は蘭に長じた。後に「書丐」の高★、「印丐」の呉昌碩と並んで「蘭丐」の閔泳翊として「海上三丐」と称せられた。
 次号では斉除荷として流転の日々を送った閔泳翊の足跡と、文人芸術家として亡命し、余生を過ごした閔泳翊と友情で結ばれた呉昌碩との話題にも触れたいと思います。

★…木偏+眉

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