楊★の詩箋-1

更新日:2020年01月01日
「中国名家書簡選粋T、U」掲載の楊★の詩箋

 弊社は公の博物館、美術館などに所蔵されない、かつ出版履歴のない貴重な書画作品を「民間に眠る名品シリーズ」として、これまで刊行し好評を博しておりますが、一昨年、シリーズ第8弾として「中国名家書簡選粋T、U」を同時出版しました。その編集作業を進め再校を著者・林宏作先生にお持ちしたとき、掲載図版から非常に興味深いものを発見され、その教えを請いました。写真は呉大徴の尺牘図版ですが、釈文の校正はもとより、紙箋の一部分に目が行ったとそうです。呉大徴が使っている詩箋は、どうやら同時代の文人・楊★がオリジナル製作した詩箋です。他にも数枚使用していたので、その証拠を図版に挙げます。赤字「藐」が楊峴の別号であることに気付かれた先生の見識の深さと言えるでしょう。
呉大徴(1835〜1902)
  本来は「大淳」ですが、清・同治帝の名「載淳」を避諱して後に「大澂」に改めました。字は止敬または清卿、号は恒軒または☆(客の下に心)斎。清末の金石学者、書画家、若くして金石拓本を好み、説文解字に没頭し、篆文、金石に関する膨大な著述を表しました。書は陳碩甫に篆書を学び、李陽冰に書法を学びましだ。画は山水・花卉を善くし、その後楊沂孫の影響を受け、金文と小篆を組み合わせて一家を成しました。子弟教育、難民救済にも乗り出しています。
楊★(1819〜1896)
  清代後期、浙江帰安(湖州)の文人、書家。字は季仇、見山。号は、庸齋または藐翁、遅鴻残叟。浙江歸安(今湖州)の人で、咸豊五年(一八五五)の挙人。清末を代表する漢代の隸書を研鑽した書家で、とりわけ礼器碑を好み、遒麗、変化に特徴ある筆致で一家を成しました。このようにオリジナルの紙箋を作っては売りつけていたと思われ、なかなかの商売人だったのかと考えられます。
 次号では楊★にまつわるエピソードとその弟子でもある呉昌碩の逸話をご紹介します。

★…山篇+見

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