済公-1

更新日:2022年05月01日
済公殿と済公殿中央に祭られる済公像
 日本ではほとんど知られない名前ですが、中国人ではまず知らない人はいないと思われる人物に済公がいます。済公は活仏や活菩薩とも呼ばれますので名僧とか羅漢といった仏様という印象を受けます。
 しかし、その姿は「名僧」というイメージからはかけ離れていて、ぼさぼさの髪に山なり帽子を被り、破れた大きな団扇を持ち、ぼろぼろの僧衣と袈裟を付けていつも笑っています。
 済公は座禅もしなければ、お経も読まず、肉も魚も食い放題、いつも酒ばかり飲んで酔っ払い、娼妓の館に平気で出入りするなど、徹底した「破戒坊主」ぶりです。そしてコオロギを闘わせる賭け事にもよく手を出し、踊り狂ったり、とんぼ返りをしたりと、その行動は奇矯で予断を許しません。
 済公は本当に実在した人物です。とはいえ、正史に名を残っていませんから、事績については不明な部分が多く、流布する伝によれば次のようになります。
 済公は南宋の紹興18年(1148)、台州に生まれ、俗名は李心遠(または李修元)、出家して道済との法名を名乗り、始め杭州の霊隠寺にいましたが、後に浄慈寺に移り、嘉定2年(1209)に61歳で卒しました。後世、人々は済公を記念するため虎★(足+包)に記念の塔を建てました。人から狂っていると評されるほどの奇矯な行いで、戒律を守らず酒肉を好みました。 しかし人々の紛争を解決し、危険にさらされている善良な人に援助の手を差し伸べ、悪人を懲らしめました。また高い医術を持ち、老僧や貧民たちの難病を治して人命を救い、人々の苦痛を軽減しました。
 同時代の信頼できる記述でも、この大筋では変わらないので、実際に奇行で知られた禅僧であったと思われます。 ただし伝記とはうらはらに、かなり純粋に仏性を探求した人のようで、その言葉とされるものが、中国南宋代に成立した禅宗灯史『五灯会元補遺』などにも残されています。 これほどの伝記によると単なる「狂僧」ですが、後世になると済公伝承が膨らみ、いつしか名僧であるとの評価が高まってしまいます。
 次号では済公の伝記と彼の詩作を紹介し、その実像に迫りたいと思います。
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