楊守敬と水野疎梅-2

更新日:2023年12月15日
左から呉昌碩、水野疎梅、王一亭。
 さて、冒頭に挙げた『学書邇言』ですが、これと『隣蘇老人年譜』の草稿を筆写し、日本へ携え帰ったのが水野疎梅です。旧福岡藩(黒田藩)士が中心となり1881年に結成された玄洋社における政治活動に飽きた疎梅は、楊守敬に憧れて明治44年(1911)、2度目の渡航で4ヶ月間に及んで楊守敬の指導を仰ぎ、ついに門人となったのです。当時の日本の書道界をリードしていた鳴鶴、一六、雪柯らが楊守敬に学んでいたわけですから、楊守敬の門人になり交流し得たことなど、さぞや意気揚々と帰国したであろうと手に取るように分かります。
  水野疎梅[元治1年(1864)7月13日〜
  大正10年(1921)10月6日]幼名は廉吉、
  のち元直、明治42年頃まで玄洋社において
  幹事、書記などの重職についていたが、
  一転、幼少時から詩書、書道に親しんでい
  たことから、翰墨生活を夢みて明治43年初
  めて上海に渡り、四川地方まで旅行し、
  当時中国の第一線級の文士らと交流した。
 その後、『学書邇言』は樋口銅牛による翻訳『学書邇言疏釈』として出版されています。しかしながら書道家として疎梅が確固たる地位を築くことは叶いませんでした。字を書けば楊守敬、讃を記せば呉昌碩、所謂、物真似の域を出ることが出来なかったのです。また、学書の面においても同様で、法書會出版部編『学書邇言』のあとがきに
  「訳文拙劣にして殆ど読むに堪へざり
  しかば、人皆其原文を得て之を精讀せ
  むことを希へり」
とあり、書論にも精通していませんでした。
 楊守敬は民国四年[1915年(大正4年1月9日)]に没すると、その月の2月6日、7日の両日に山本竟山(1863〜1934)が主唱して、京都市岡崎の京都府立図書館楼上で、楊守敬追悼のための展観と講演会が実現、日本書道界に多大なる影響を与えた恩人を追悼しました。
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