問鼎之軽量-1(鼎の軽重を問う)

更新日:2024年02月01日
中国古銅器中最長銘文の毛公鼎(1850年頃出土)器物と拓本(2016年04月再掲)

 以前、「毛公鼎」陳介棋偽造説についてお話ししましたので、毛公鼎の説明については割愛しますが、食物を煮るのに用いた両耳のついた三足の青銅器であり、宗廟社稷、会盟の礼器として用いられたことはご存知かと思います。
 この鼎についてに「問鼎之軽量」という言葉があります。出典は『春秋左氏伝』「宣公三年」で、
  楚子伐陸渾之戎、遂至于★、
  觀兵于周疆。定王使王孫滿
  勞楚子。楚子問鼎之大小輕
  重焉。

  楚子、陸渾の戎を伐ち、遂
  に★に至り、兵を周の疆に
  観す。定王、王孫満をして
  楚子を労らわしむ。
  楚子、鼎の大小軽重を問う。
とあります。
 伝説では夏の始祖・禹王が九つの州から金を貢上させて鼎を作り(『史記』封禅書)、夏最後の君主・履癸(桀)が殷の天乙(湯王)に滅ぼされ殷室に、帝辛(紂王)が周の武王に滅ばされて周室の所有となりました。『墨子』耕柱によると、周の成王即位の折、周公旦は九鼎を洛邑に移し、ここを新都と定めました。さらに九鼎は天子の象徴として周三七代にわたって大切に保持されました。
 春秋時代になるとめっきり衰えが目立つようになった周王室に対し、「覇者」と呼ばれる実力者たちが次々と台頭するようになりました。周の定王を軽んじた時の覇者・楚の荘王も晋の景公を破った勢いで天下をうかがうようになります。
 次号では「問鼎之軽量(九鼎の大小・軽重を問う)」問うたところ、周の定王の使者・王孫満が何と答えたか、本稿の結びとなります。お楽しみに。

★…各+隹

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