陸游-2

更新日:2024年01月15日
陸游『入蜀記』

 しかし赴任先で范成大の部下として身分の差を越えて親しく詩を交わすなどの交流したことを非難され、結局は辞職します。このとき号を放翁とし、成都で寓居することになりました。放翁と号した陸游は、逆境にあっても動じず、政治には激しい怒りをぶつけますが、私生活は実に清貧で、「足るを知る」生活を子孫にも戒めました。「放翁家訓」は陸游四三歳の詩で、家計がひっ迫し、衣食にも事欠く生活であっても清廉こそ学問の神髄であり、貧しくとも節操を曲げてはならぬと説きました。
 陶淵明詩を愛したその詩風は、世の中の腐敗を糾弾したり、望ましい政治のあり方を歌う「忠義憤激」、そして政治とは無縁の世界で世俗を超越し、自然美や心の余裕を歌う「閑適敷腴」の二面があるといわれます。陸游は生前から高名で人気があり、死後その名声はさらに高まりました。
 特に明代には汲古閣から詩集が刊行され、現代においても評価は高く、李白、杜甫と並び中国文学史上最大の詩人であると評価されています。欲望を持たず、心の高潔を貫いた陸游は、学問修養のために読書の必要性を説きました。稀にみる多作の詩人は死ぬまで読書を楽しみ、詩作に旺盛なる情熱を費やしました。
 弊社刊「読書の詩 上」福本雅一著(2005・12・19)があり、陸游の「読書」と題した詩が17首、「読書□□」と題した詩が八首あると紹介、うち代表作品として取り挙げている詩を紹介します。
  放翁白首歸□★曲
  放翁は白髪となって★渓の奥に帰り。
(中略)
  客來不☆笑書戯*
  他人がやって来て書痴と笑おうとも恐れな
  い
  終勝牙籤新未觸
  新しい書物の牙籤にまだ手を触れぬよりは
  まし。

 ※作字
  □…馬+單
  ★…炎の右「リ(最終画左にはねる)」
  ☆…りっしん偏+「白」
  *…やまいだれの中に「疑」

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