寒食-1

更新日:2017年03月01日
綿山にある介子推の墓
 二十四節気のひとつで、冬至の翌日から数えて105日目に当たる「寒食」、今年は新暦の4月3日になります。寒食節の翌日が清明節と続いているため、二つの祭日を混同しそうになりますが、古代中国では寒食は独立した祭日「寒食節」でした。隋、唐の時代の寒食は、清明の二日前とし、宋代には3日前と定められていたのです。
 春秋時代、晋国王子・重耳は跡目争いに敗れて亡命、流浪の身となりましたが、介子推(生年不詳〜紀元前六三六年)の支えと秦国に身を寄せ故国に戻り、60歳代になってようやく晋の国王・文公として即位しました。文公は重臣たちに爵位を与えましたが、介子推は
  士は甘んじて焚死しても公候にならず
と論功行賞を争わない志を貫き通し、一人、綿山に隠居しました。
文公は爵位を与えるので下山するよう説得しますが介子推は応じず、ついに山に火を放ち炙り出そうとしましたが、結局、介子推は黒焦げになった柳の大木の傍らで母と抱き合って焼死しました。文公は自らの愚かさを嘆き、それ以後、介子推の命日に禁火を行って追悼したのが「寒食節」の始まりという故事となり、『史記』第九・晋世家や『十八史略』に書き残されました。しかし史書に介子推が焚死した記録がないことから、実際には火を断って火星の出現を待つという宗教的行事ではないかと考えられています。
 次号では、左遷先で三度目の寒食節を迎え、我が身の不遇を嘆く名詩「黄州寒食」が後世、名品として高い評価を受けることになったエピソードについてお話します。
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