寒食-2

更新日:2017年03月15日
蘇軾「行書黄州寒食詩巻」(上)と黄庭堅の後跋
 後世になり、いつしか「寒食節」の風習は途絶えてしまい、今では「寒食節」という名称すら忘れられました。しかし、六朝時代の歳時記で、梁の宗懍撰『荊楚歳時記』の「寒食」条に、
  今人、大麦粥をつくり、杏仁をくだきて酪をつくり、飴を引きて之にそそぐ
とあり、「寒食節」に「杏仁酪」を食べるという風習が伝えられています。
「酪」は今のヨーグルトを指し、「杏仁酪」は杏仁で作ったヨーグルト食品、つまり今日の「杏仁豆腐」の原型であったと思われます。禁火の日に冷たい食べ物を食べるこの風習を詩にも残されていて、杜甫の『百五日の夜に月に対す』や、姚合の『寒食書事詩』などから当時の状況が思い浮かびます。
 さて、北宋の詩人、蘇軾(東坡)[1036年(景祐3年)〜1101年(建中靖国元年)]の「行書黄州寒食詩巻(國立故宮博物院蔵)」という縦三四・二、横199.5センチにわたる紙本墨書があります。この長巻は、蘇軾が筆禍事件によって黄州(湖北省黄岡県)に左遷されていた47歳のとき、3度目の寒食節を迎え、我が身の不遇を嘆く詩「黄州寒食」二首を書いたものです。
  この作品には16行120文字が淡々と書かれていますが、後半に進むにつれ、文字が大きく太くなっていくのが特徴で、そこに蘇軾の感情の高ぶりを見てとれる名品です。この「寒食帖」には蘇軾の弟子でもあり友人でもある黄庭堅(山谷)[1045年(慶暦5年)〜 1105年(崇寧4年)]の跋文、9行57字があります。蘇軾は「寒食帖」巻の一部を空白にし、「500年後、人が跋を加えるのを待つ」としましたが、僅か20年足らずで黄庭堅が、蘇軾よりも大きな文字で跋文を記したのは、黄庭堅の自信の大きさと蘇軾との親交の深さを示しています。
 本文、跋文、ともに書道史上の傑作と呼ばれるこの合作は、1860年の「円明園焼討事件」で民間流出した後、1922年に日本に渡り、日本人収集家の菊池惺堂氏が蒐集しました。その後、内藤湖南(虎)の手に託されますが、湖南亡き後は王世傑が買い取り、1950年に台北に渡り、1987年、ついに國立台北故宮博物院に安住の地を得たのです。
←前へ 目次 次へ→