十竹斎箋-1

更新日:2017年06月01日
十竹斎箋譜 1951年(栄宝齋)
 明代初期から営業している北京の瑠璃廠骨董街は、歴代の文人墨客が各時代の墨、硯、紙、筆などの文房四宝、文房諸具、玉石、木彫、古美術品を求めて交流しました。これらのコレクションをする上で最も困難な蒐集品といえば「紙」が考えられます。その理由は使えば消耗してしまうからであり、紙が作品としてそのままの状態、つまり未使用で後世に留めるというのはかなり限られます。
 中国が資本主義から社会主義への過渡的経済制度としてとられた高級国家資本主義である「公私合営」や、1965年からの暗黒の10年、毛沢東主導下で展開された政治・権力闘争である「文化大革命」を経て、北京瑠璃廠の栄寶斎、清秘閣、天津の瑞芝閣、文美斎、文華斎、士宝斎、上海の九華堂、蘿軒變、朶雲軒、錦雲堂、香港の文聯荘、など多くの玉版箋や画仙紙などが世に出されましたが、今号では紙箋(日本では便箋)を代表する「十竹斎箋」についてお話ししたいと思います。
 十竹斎とは、明末・安徽の版画家・胡正言が南京に住んでいた時の齋号で、彼は生涯木版水印に従事しました。最も有名な仕事に、明・万暦47年(1619)から清・順治2年(1645年)の26年間に大量の版画を製作し、それを精選した画譜八種(八冊)『十竹斎画譜』と紙箋(四冊)『十竹斎箋譜』の刊行があります。「十竹斎書画譜」は、清朝の「芥子園画伝」とともに、日本の浮世絵技法に多大なる影響を与えたと言われています。
 胡正言の仕事を紹介しますと、彼は画家に作品を依頼し、それを下絵にし、木版印刷の一種である「餖版」という技法を駆使して印刷しました。「餖版」とは、まず色ごとに分けた木板を作り、木板に紙を合わせて順に刷り重ねる方法で、木板の彫り跡によって浮き彫りのような効果を生む「拱花」という技法も駆使しました。これが今でいう「多色刷りの」原型とも言えるのですが、胡正言の仕事は実に几帳面、版木が精緻で素晴らしい技術を持ち、明末清初の版画の傑作を生み出しました。
次号では名品と呼ばれた詩箋とその復刻に情熱を燃やした魯迅のエピソードなどもご紹介します。
←前へ 目次 次へ→