鴛鴦七誌斎製-1

更新日:2021年01月01日
鴛鴦七誌斎製
 中国古墨の名称の一人、曹素功は明代万暦43(1615)年、安徽省歙県の岩鎮に生まれ、清の康煕28(1689)年に75歳で亡くなりました。本名を聖臣、字を昌言といい、店名に自らの号である素功を使って「曹素功芸粟斎」を創業しました。彼は若い頃より明墨で名高い程君房墨をこよなく愛玩し、明から清へと王朝が変わる激動の時代に、明末名工である休寧の墨匠「呉叔大」が閉鎖するに伴って、それを譲り受け創業しました、乾隆時代後半になり、曹素功芸粟斎も六代目が継承する頃になって、「曹素功堯千」、「曹素功引泉」、「曹素功徳酬」の三店舗に分かれましたが、アヘン戦争(1840)や太平天国の乱(1851)などの国難により徽州や大都市蘇州の製墨業は略奪、破壊、飢餓など壊滅的な被害を受けました。
 しかし、戦況を予測した曹素功六代目堯千はその子毓東の代となった道光年間に、いち早く当時新興都市であった上海へ進出したのです。当時の上海には、欧米列強の屈強な軍隊が駐留していたこともあり、太平天国の戦禍から免れることが出来、事業は著しく拡大しました。そして1960年代になり、国策により企業の合併統合「公私合営」が進むなか、曹素功は同業者であった胡開文の職人たちとともに「上海墨廠」として再編されました。
写真は曹素功十一世の曹裕炳(叔琴)による製墨です。題字は于右任[清光緒五年3月20日(1879年4月11日〜民国53年(1964)11月10日]によるもので「鴛鴦七誌斎製 右任」とあります。款識には「中華民国十八年荷花生日」、「薇歙曹素功六世孫堯千氏十一世孫叔琴監造」、墨頂に「国産油煙」とあります。
 次号では、于右任が旧蔵し、西安碑林に寄贈した墓誌名と、鴛鴦七誌斎製が造られた所以についてお話しします。
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