「科斗(オタマジャクシ)」-2

更新日:2015年11月15日
睡虎地秦墓竹簡(左)と益田池碑銘(高野山霊宝館蔵)
先秦時代の歴史書『竹書紀年』は宋代に散佚しましたが、清代に佚文が集められた中国古代の貴重な資料ですが、ここに
  晋太康二年、汲県人不準盗発魏襄王墓、或言安釐王冢、
  得竹書数十車、………漆書皆科斗字、
があり、要約すると、
  西暦281年、汲郡(河南省)の不準は、魏の襄王
 (在位前318〜前281)、あるいは安釐王(前276〜
  前243)の冢を盗発し、竹書数十車を得たり、
  ………漆書は皆な科斗字なり。
です。
つまり、竹簡に漆で書かれた書体は全て科斗文字だったようです。汲県の「冢(つか)」から盗掘した書であることから「汲冢書(きゅうちょうしょ)」とも呼んでいます。
 しかし、『晉書・束ル傳』に、
  初發冢者、燒策照取寶物、及官收之、
  多燼簡斷札、文既殘缺、不復詮事
とあり、不準が盗掘時に竹簡の多くを松明(たいまつ)として燃やしてしまったため、勅命により西晋時代の荀勖(じゅんきよく:?〜289)ら一流学識者が当時の通行文体に改めて整理し直したそうです。
 さて、六朝時代になると、書体のデザインが流行ります。それらの書体は「雑体書」や「雑体篆」などと呼ばれ、その流行は唐代まで続きました。その頃、中国に渡った空海は日本に最初に雑体書を待ち帰りますが、帰国後に携わった潅漑用水開発に際し、それをさらにアレンジした「飛白体」という書体を「大和州益田池碑名並序」に発表しました。
 漢字文化圏ではその後、篆隷楷行草の五体意外に新たな書体は増えませんでしたが、これら雑書体を見ていると、デザイン力や文字の創造力とともに、文字の原初的なパワーを感じずにはおれません。
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